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(11)自分史 その6

燕市にいた頃 その2


月が替わって9月1日、私は運送屋に頼み、寮から1キロメートルくらい離れている木造の古いアパートの2階、6畳の和室に引っ越しました。当時のアパートは、台所とトイレは共同で、浴室はなく銭湯に行くのが普通のスタイルでした。私は次の仕事の当てもなく、〇〇工業を退職したのは家庭教師の収入があったからだと思います。


当時、私の考えとしては中学1年生、取り分け中学3年生の家庭教師を来年の2月までやり、それから実家に戻り、新たな気持ちで職探しを始めようと思っていました。また、自炊しなければならないで、小型の電気冷蔵庫や鍋、やかんなどの調理器具、小さな食器棚とテーブル、14インチの白黒テレビ、さらに家庭教師をしている生徒の家に行くため自転車も買いました。


夏の暑さも和らぎ、めっきり涼しくなってきた9月の半ば頃、私はアパートから徒歩5分くらいの所にある小さな町工場で働くことにしました。昭和40年代の燕市は、洋食器のほかに〇〇工業のような工作機械の設計製造、金属製品の加工業などの中小企業、そして、夫婦や家族で働く零細企業などがたくさんありました。私が働いていた頃は、まだ自家用車を持っている人は少なく、遠くから通って来る人たちは、列車通勤が多かったようです。したがって朝、夕の通勤時間帯の燕駅は、都会並の混雑でした。


アルバイトを始めた町工場も、両親と2人の息子さんで働いている典型的な零細企業でした。しかしながら、かなり広い工場の中には、金属切断機やクレーン、各種金属板が高く積まれていました。また、運送用トラックが1台あり、自家用車も2台あったと思います。私の仕事は単純で、息子さんがクレーン操作をする際、積み上げる金属板を目的の場所に誘導することでした。その他の仕事としては工場内の清掃、軽い金属板の運搬などでした。


勤務時間は午前8時から午後5時まで、昼休みは1時間、休日は日曜日でした。したがって、昼食はアパートに戻って食べていました。夜の家庭教師も7時から9時まで、やっていましたから、銭湯に行くのは9時半頃でした。


11月になると雨の日が多くなり、12月には雪が降る日もありました。私は3カ月くらいアルバイトをしましたが、クリスマスの前に仕事を辞めました。正月休みには実家に帰りましたが、この時は、両親に〇〇工業を退職したということは、話さなかったと思います。来年の2月に、燕を離れる時に話せばいいかなと・・・・・・。


ということで、年が明けた3日には燕に戻って来ました。そしてまた3日の夕食から、自炊生活が始まりました。1968年のカレンダーを見ると、仕事始めの4日は木曜日でしたから、家庭教師は8日(月曜日)から始めたと思います。それから雪国特有の冬将軍の季節が始まり、1週間も雪や吹雪の日が続きます。と言っても、昼間に雪が止んだり、夕方に薄日が射したりする日もありますが、1日中晴れの日は少なかったです。


この年はうるう年でしたから、2月29日には家庭教師をやめました。昼間は暇だったので、引っ越しの準備や運送屋の手配、市役所の転出届などを済ませておきました。また、〇〇工業をやめたので、3月2日(土曜日)午後2時頃、実家に着くということを電話で伝えました。


当日のことは、50年経った今でも本当に良く覚えています。やはり、人間の記憶というものは、節目の日は忘れないものなのでしょうか。3月になると、ようやく雪国にも春の日差しが訪れてきます。燕市は日本海に近いため、積雪は私の実家よりも少なく、真冬でも自転車に乗ることができました。


運送屋が10時頃に来たので、荷物を小型トラックに運び込んでくれました。運転手は1人だったので、私は助手席に腰掛けさせてもらいました。あらかじめ地図で調べておいたルートを運転手に告げると、運転手はすぐに了解してトラックを発進しました。車中の会話は、全く覚えていませんが、米山大橋近くの休憩所で昼食を摂りました。


昼食後、また、私は運転手と一緒にトラックに乗り、実家がある高田市に向かいました。日本海を右手に望みながら、トラックに乗ること1時間くらいで、国道から実家に行く脇道の入口に、トラックを止めてもらいました。当時は自家用車を持っている家も少なく、国道は除雪されているものの、脇道はまだ雪が積もっている状態でした。私と両親、そして運転手は、荷物を国道から30メートルくらい離れている実家に運びました。


実家は、まだ私が住んでいた時と同じように茅葺の家でしたが、牛を売りに出したため、私は牛小屋を改造した部屋を使うことになりました。実家には両親と兄夫婦、そして長女が住んでいました。両親には〇〇工業の仕事の内容や家庭教師をしていたことなどを話したことと思います。


3月初めとはいえ、家の周りには、まだ雪が1メートル以上も積もっており、私は1週間くらい新聞の求人案内を見ていました。そんなある日、目に留まった会社がありました。それは中央工業株式会社という会社で、勤務地は新潟市にある造船工場、仕事の内容は船舶艤装設計でした。給料も良かったので、早速、その会社に電話しました。そして翌日、私は汽車に乗って柏崎駅まで行き、中央工業株式会社の社長に会い、採用してもらいました。今、思えば人材派遣会社の走りでした。

自分史 その7に続く。


by stone326 | 2018-01-17 08:37 | 物書きへの道


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