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(12)自分史 その7

新潟市にいた頃


1968年のカレンダーを見ると、3月20日が春分の日でしたから、私は多分、その日に社長に言われた場所、つまり中央工業の従業員が宿泊している家に、夕方直接行ったことと思います。私は燕で買ったものの殆どは実家に置いて、バッグ一つの身軽さでした。


そして翌日の朝、その人と一緒に〇〇造船工場に行き、造船工場の社員や中央工業の従業員を紹介してもらい、船舶艤装の仕事の説明も受けました。設計室内は木造の建物でしたが、社員や下請け会社からの派遣従業員、そして事務係の女性も4人ほどおり、全体で40人くらいいたと思います。燕の〇〇工業とは、雲泥の差でした。


また、勤務時間は午前8時から午後4時までで、1日7時間労働、土曜日は出勤でしたが祝日は休みでした。1カ月の残業も30時間が上限でしたから、1カ月の実働時間は多い時でも210時間くらいでした。不法残業やブラック企業などとは、縁遠い会社でした。


宿泊しているアパートから造船工場まで、歩いて7分くらいの距離で、食事や風呂はありませんでした。それで中央工業の従業員から、食事は毎日3食扱ってくれる定食屋を紹介されました。場所は造船工場から歩いて5分くらいで、有難いことに1食100円、月末払いでした。朝食と夕食は、あまりお客さんが来なかったようですが、昼食の時は12畳くらいある和室の2部屋に、たくさんの人たちが食事に来ていました。それから風呂はどこに行っても銭湯がありました。


私に与えられた仕事といえば、最初の2カ月くらいは、殆どが図面のトレースだったと思います。そして3カ月目くらいから、鮪延縄漁船の艤装設計の仕事をやるようになりました。私は製図の知識はあるものの、やはり簡単な設計図を書いていました。


晴れた日の昼休みには、屋外の広場でテニスをやったり、キャッチボールをやったりしていました。社員はもちろん、外注設計で来ている人たちや、事務係の女性たちも20代で独身の人が多かったです。そこで5月半ばを過ぎた土曜日の夕方、事務係の独身女性4人と、独身男性の人たちの合計8人くらいで、映画『猿の惑星』を観に行ったことがありました。私の人生において、多数の独身仲間と一緒に映画を観に行ったのは、後にも先にもこの1回だけでした。今、思えば良き青春時代のひとコマだったのです。


また、マカロニ・ウエスタンが大ブームの時代でしたから街角の至る所に、マカロニ・ウエスタンのポスターが貼ってありました。燕にいた時は映画館が少なかったので、マカロニ・ウエスタンを観たのは、『荒野の1ドル銀貨』の1本だけでした。それで私は新潟に来てから、『新・夕陽のガンマン/復讐の旅』と『怒りの荒野』を観て、完全にマカロニ・ウエスタンの虜になりました。


その後、8月頃に『夕陽のガンマン』と『続・夕陽のガンマン/地獄の決闘』の2本立てを映画観で観ました。そして11月頃に『星空の用心棒』を観ました。新潟で観たマカロニ・ウエスタンは、以上の5本でした。つい、マカロニ・ウエスタンについて長くなってしまいましたが、年末には『2001年宇宙の旅』と『荒鷲の要塞』の話題作も観とことを覚えています。


私は毎日残業しても5時半には退社していたので、夕食は6時に終了ですから夜の時間は、たっぷりありました。友達と2人で新潟駅前のダンスホールに行って、ダンスを習ったり、友達の家に行って、麻雀もやったりしていました。それ以外の日は、ラジオでナイターを聞いていました。


但し、そんなに稼いでいなかったので、飲みに行くことも、旅行に行くこともなかったです。また、正社員ではないので、この先、仕事を覚えても将来の展望がないな、とも思っていました。


そして、8月のお盆休みには実家に帰りましたが、仕事の内容については、両親にあまり話すこともなかったようです。ただ真面目に働いているよ、というくらいに留めておきました。


お盆が終わって新潟に戻って来ても、仕事のことはあまり覚えていなく、惰性でやっていたように思います。そして、この年の年末に、中央工業の先輩から横浜にある日本揮発油株式会社の仕事をやるのに、その会社の下請け設計事務所である中央プラント工業を紹介されました。先輩から言われた言葉はただ一つ、「お前は、ここで働いているよりも、日本揮発油の仕事を覚えたほうがいい。何しろ仕事のスケールが違うから」ということでした。


当時、私は給料のことよりも、何か仕事を覚え、技術を磨きかったのでしょう。母との約束である「新潟県から出ないで・・・・・・」ということも忘れ、承諾してしまいました。それはひとえに、高田高校時代から味わった挫折が、そうさせたものだと思います。自分にあった仕事を覚え、1人前になって行けば、自ずと給料は稼げるから・・・・・・と。そこで私は、担当の係長と中央工業の社長に、来年の1月半ば頃に退職したいということを伝えました。


年末の29日(日曜日)、正月休みに実家に帰った私は、両親、長兄、そして兄嫁にも、「1月20日に仕事で横浜に行くから」と言いました。この時、両親は反対もせず、私の願いを聞き入れてくれました。


年が明けた1969年1月6日が月曜日でしたから、私は5日の午後、実家を出て新潟に戻って来ました。それから2週間、何の仕事をしたかさっぱり覚えていませんが、1月20日(月曜日)、朝早く下宿を出てバスに乗り、新潟駅に向かいました。荷物は製図用具一式と衣料品だけでした。


(横浜市にいた頃 は現在執筆中です)


by stone326 | 2018-01-18 09:20 | 物書きへの道

(11)自分史 その6

燕市にいた頃 その2


月が替わって9月1日、私は運送屋に頼み、寮から1キロメートルくらい離れている木造の古いアパートの2階、6畳の和室に引っ越しました。当時のアパートは、台所とトイレは共同で、浴室はなく銭湯に行くのが普通のスタイルでした。私は次の仕事の当てもなく、〇〇工業を退職したのは家庭教師の収入があったからだと思います。


当時、私の考えとしては中学1年生、取り分け中学3年生の家庭教師を来年の2月までやり、それから実家に戻り、新たな気持ちで職探しを始めようと思っていました。また、自炊しなければならないで、小型の電気冷蔵庫や鍋、やかんなどの調理器具、小さな食器棚とテーブル、14インチの白黒テレビ、さらに家庭教師をしている生徒の家に行くため自転車も買いました。


夏の暑さも和らぎ、めっきり涼しくなってきた9月の半ば頃、私はアパートから徒歩5分くらいの所にある小さな町工場で働くことにしました。昭和40年代の燕市は、洋食器のほかに〇〇工業のような工作機械の設計製造、金属製品の加工業などの中小企業、そして、夫婦や家族で働く零細企業などがたくさんありました。私が働いていた頃は、まだ自家用車を持っている人は少なく、遠くから通って来る人たちは、列車通勤が多かったようです。したがって朝、夕の通勤時間帯の燕駅は、都会並の混雑でした。


アルバイトを始めた町工場も、両親と2人の息子さんで働いている典型的な零細企業でした。しかしながら、かなり広い工場の中には、金属切断機やクレーン、各種金属板が高く積まれていました。また、運送用トラックが1台あり、自家用車も2台あったと思います。私の仕事は単純で、息子さんがクレーン操作をする際、積み上げる金属板を目的の場所に誘導することでした。その他の仕事としては工場内の清掃、軽い金属板の運搬などでした。


勤務時間は午前8時から午後5時まで、昼休みは1時間、休日は日曜日でした。したがって、昼食はアパートに戻って食べていました。夜の家庭教師も7時から9時まで、やっていましたから、銭湯に行くのは9時半頃でした。


11月になると雨の日が多くなり、12月には雪が降る日もありました。私は3カ月くらいアルバイトをしましたが、クリスマスの前に仕事を辞めました。正月休みには実家に帰りましたが、この時は、両親に〇〇工業を退職したということは、話さなかったと思います。来年の2月に、燕を離れる時に話せばいいかなと・・・・・・。


ということで、年が明けた3日には燕に戻って来ました。そしてまた3日の夕食から、自炊生活が始まりました。1968年のカレンダーを見ると、仕事始めの4日は木曜日でしたから、家庭教師は8日(月曜日)から始めたと思います。それから雪国特有の冬将軍の季節が始まり、1週間も雪や吹雪の日が続きます。と言っても、昼間に雪が止んだり、夕方に薄日が射したりする日もありますが、1日中晴れの日は少なかったです。


この年はうるう年でしたから、2月29日には家庭教師をやめました。昼間は暇だったので、引っ越しの準備や運送屋の手配、市役所の転出届などを済ませておきました。また、〇〇工業をやめたので、3月2日(土曜日)午後2時頃、実家に着くということを電話で伝えました。


当日のことは、50年経った今でも本当に良く覚えています。やはり、人間の記憶というものは、節目の日は忘れないものなのでしょうか。3月になると、ようやく雪国にも春の日差しが訪れてきます。燕市は日本海に近いため、積雪は私の実家よりも少なく、真冬でも自転車に乗ることができました。


運送屋が10時頃に来たので、荷物を小型トラックに運び込んでくれました。運転手は1人だったので、私は助手席に腰掛けさせてもらいました。あらかじめ地図で調べておいたルートを運転手に告げると、運転手はすぐに了解してトラックを発進しました。車中の会話は、全く覚えていませんが、米山大橋近くの休憩所で昼食を摂りました。


昼食後、また、私は運転手と一緒にトラックに乗り、実家がある高田市に向かいました。日本海を右手に望みながら、トラックに乗ること1時間くらいで、国道から実家に行く脇道の入口に、トラックを止めてもらいました。当時は自家用車を持っている家も少なく、国道は除雪されているものの、脇道はまだ雪が積もっている状態でした。私と両親、そして運転手は、荷物を国道から30メートルくらい離れている実家に運びました。


実家は、まだ私が住んでいた時と同じように茅葺の家でしたが、牛を売りに出したため、私は牛小屋を改造した部屋を使うことになりました。実家には両親と兄夫婦、そして長女が住んでいました。両親には〇〇工業の仕事の内容や家庭教師をしていたことなどを話したことと思います。


3月初めとはいえ、家の周りには、まだ雪が1メートル以上も積もっており、私は1週間くらい新聞の求人案内を見ていました。そんなある日、目に留まった会社がありました。それは中央工業株式会社という会社で、勤務地は新潟市にある造船工場、仕事の内容は船舶艤装設計でした。給料も良かったので、早速、その会社に電話しました。そして翌日、私は汽車に乗って柏崎駅まで行き、中央工業株式会社の社長に会い、採用してもらいました。今、思えば人材派遣会社の走りでした。

自分史 その7に続く。


by stone326 | 2018-01-17 08:37 | 物書きへの道

(10)自分史 その5

新潟県燕市にいた頃 その1


1966年4月1日(金曜日)、ついに私は、社会人の第一歩を踏み出す日がやってきました。この日の朝8時に出勤ということでしたから、私は前日の3月31日の夕方に、○○工業株式会社独身寮「松風寮」の管理人を尋ねて行きました。会社は弥彦線の燕駅から歩いて15分くらいで、松風寮は会社の隣にありました。建物は南向きの木造2階建てで、玄関は東側にあり、細い道路に面していました。


早速、管理人から部屋と社員食堂、共同トイレと浴場の場所を教えてもらいました。社員食堂は、寮生は朝食が7時と夕食は仕事が終わる5時から、昼食は通勤の社員も利用するので12時からで、風呂に入れる日は月、水、金、土曜日の週4回ということでした。なお、本社の建物、および働く場所は、すでに昨年の9月会社訪問の際、案内していただいてありました。社員食堂で夕食を済ませてから部屋に戻り、数少ない荷物を整理したり、押し入れから布団を出したりして、早目に寝たことだと思います。


そして、入社初日は7時半に朝食を済ませ、8時10分前に木造2階建ての2階にある設計課に行きました。設計課長も会社訪問の際、知らされていたので今日は社員、と言っても男性3人と女性1人ですが、課長から紹介してもらいました。それからドラフターと机の場所を教えてもらい、タイムカードの扱い方、コピー機の使い方なども教えてもらったことと思います。


私が就職した時は、テレビはもちろん、ラジオも持っていなかったので、日曜日に駅前の商店街に行って、1万8千円くらいのポータブルステレオを買いました。高校生の頃から洋楽のドーナツ盤をたくさん持っていたし、ラジオで野球や相撲の中継放送などを聞きたかったのです。


月曜日からどのような仕事をしたかと言うと、最初の2ヶ月間は殆ど工作機械の図面を見たり、練習で機械部品のトレースをしたり、図面を青焼きでコピーしたり、していたと思います。当時の労働時間は、1日8時間で土曜日も出勤でしたから、1週間で48時間、多い月は27日出勤だと、1カ月の労働時間が216時間の時もありました。とにかく1週間がとても長く感じていました。半年くらいは毎日定時で帰っていました。


給料は毎月25日締め切りの末日払いでしたから、4月30日が社会人初の給料日でした。今、カレンダーを見てみると、その日は土曜日でした。ゴールデンウィーク真っ最中でしたが、当時は祝日も出勤だったと思います。


社員は150人くらいの中小企業でしたが、福利厚生施設がしっかりしており、社会保険はもちろん、毎年5月頃に1泊2日の社員旅行もありました。また昼休みには、晴れた日は外の庭でバレーボールをしたり、雨の日は屋内でバドミントンなどもしたりしていました。さらに社内結婚された社員の方も多かったようです。そして残業代は必ず支払っており、毎月皆勤手当もあり、小規模ながら模範的な会社だったと思います。


そして、梅雨に入った6月のある日、私が進学高校を卒業したことを、同じ寮生からの知らせで聞いた近所の母親が、私を尋ねてきました。中学3年生の娘がいるので、家庭教師をしていただきたい、英語と数学の2教科で、月謝は毎週2回、3千円だったと思います。時間は午後7時から2時間、毎週月曜日と木曜日、場所は母親の家ということで引き受けました。


その後、翌年の2月まで2人の中学3年生に勉強を教えました。ただし、1人は3カ月くらいでやめましたが、3人とも志望校に合格されました。その噂が近所の界隈にも流れ、4月からは何と、女子中学1年生が3人ずつの2組、月曜日と木曜日、そして火曜日と金曜日。女子中学3年生が3人は水曜日と土曜日に、生徒たちの代表の家に集まってもらい、同じように英語と数学を教えることになりました。そして月曜日と木曜日の女子中学生のうちの1人は、最初に家庭教師をした娘さんの妹さんでした。


燕に来てから7カ月以上たった11月下旬の日曜日、農閑期の合間に母が脇野田駅から普通列車を乗り継いで、私に会いに来てくれました。当然、燕駅前で待ち合わせしてから、会社の寮まで歩いて行きました。部屋に入ると、母が持って来てくれた弁当を食べながら、今の仕事や家庭教師のアルバイトをしていること、そして家族のことなどを話したことだと思います。母との話が一段落してから、家庭教師をしている2人の家に、母と一緒に挨拶に行きました。生徒は3人いましたが、母が来た時はすでに1人やめていました。


その後、母と一緒に燕駅まで見送りに行きました。その日の詳細な出来事は忘れていますが、今こうして自分史を書いていくと普通列車、当時は蒸気機関車でしたが、母が私に会いに来た晩秋の1日を思い出さずにはいられません。


そして暮れの12月31日は実家に帰り、母が作ってくれたおせち料理を、たくさん食べたことと思います。当時は年末年始の休みは少なく、4日から仕事始めなので、3日の夕方には会社の寮に戻って来ました。


私は〇〇工業株式会社に入社してから1年以上経ち、仕事にも慣れてきましたが、この先この会社で仕事を続けても将来性があるのかと、悩むようになりました。それで7月のある日、「8月限りで退職したい」と設計課長に申し出しました。その時設計課長に、「退職しないで会社に残ってもらいたい」と言われましたが、私の意志は変わらず、8月31日に給料をいただき〇〇工業株式会社を退職しました。

(その2に続く)


by stone326 | 2018-01-16 09:00 | 物書きへの道

(9)自分史 その4

短大時代


私が長岡工業短期大学電気工学科に入学した1964年は、東京オリンピック開催の記念すべき年でした。そして、私の趣味であるマカロニ・ウエスタンがイタリアで製作、クリント・イーストウッド主演の『荒野の用心棒』が劇場公開され、その後、空前のマカロニ・ウエスタン・ブームになりました。


それはさておき、1964年のカレンダーを見ると、4月6日が月曜日でしたから、この日が短大の入学式だったと思います。したがって私は父と一緒に、日曜日に汽車に乗って実家から来迎寺の叔父の家に行きました。そこで父は、(息子が短大に通うので、2年間お世話になるからお願いします)というような話し合いが行われました。


翌日の入学式には、父は短大に行かず、私1人で長岡にある短大に行きました。この日から今までの生活スタイルが、がらりと変わってしまいました。叔父の家は国鉄官舎なので実家に比べて狭く、6畳の台所と8畳の和室が2部屋、そして4畳半と3畳の和室が1部屋ずつでした。もちろん縁側とトイレ、浴室はありました。また、中学1年生の長男を筆頭に、小学5年生と小学2年生の弟が2人、さらに幼稚園の妹が1人、叔父と叔母の6人家族で、長女は東京に働きに行っていました。幸いにして私は狭いながらも、3畳の和室を使わせてもらうことになりました。


息子3人が学校に通い、次女も幼稚園に行っているということで、叔母は家族の食事や弁当を作り、掃除、洗濯も大変だったと思います。さらに少しでも家計の助けになるよう、バトミントンの網張の内職もやっていました。この仕事は夜になれば、仕事から帰って来た叔父を初め、4人の子供たちも手伝っていました。そのような事情で、私もバトミントンの網張を教えてもらい、毎晩のように手伝っていました。但し、年2回の学期末テストの半月くらいと夏休み、正月休み、そして春休みに実家に帰っていた時を除いては。


結局のところ、毎朝6時半に起床、朝食後すぐに来迎寺駅から汽車に乗り長岡駅へ。そこからバスに乗って短大前まで行きました。そして授業が終わるのが、月曜日から金曜日は午後4時10分、そして土曜日は正午、またバスと汽車を乗り継いで官舎に着く頃は、もう5時半になっていました。叔父の仕事は8時から午後5時までなので夕食は大体、6時半頃でした。そして夕食後、バトミントンの網張、入浴を済ませると、もう9時を過ぎていました。


また官舎は当然、線路沿いにあり、朝4時半頃から汽車の汽笛や汽車の走る音で毎朝のように、4時半になると目が覚めてしまい、あとは起床の6時半までうたた寝の状態だったようです。夜10時から翌日の6時半まで寝ていた今までの生活パターンが、見事に崩れ去ったのでした。


そして、この年の6月16日午後1分41秒、新潟大地震が起き、私は短大の機械製図の授業の時でした。信越本線は停まりましたが、バス便はあったので、バスを乗り継いで来迎寺の叔父の家まで帰ったことがありました。


夏休みが終わったある日、叔父がステレオタイプのレコードプレイヤーを買ったので、邦楽、洋楽を問わず歌を聴きながら、バトミントンの網張に精を出していました。また、この年の10月10日に東京オリンピックが開催され、連日のようにTVを見ながら、バトミントンの網張をしていました。

ということで、短大1年の期末テストも無事終了し、春休みには電気工学科の先生と生徒たちで東京に行って、関連会社を4社くらい訪問しました。


そして、2年生の夏休みが終わり、9月になると学校に企業から募集案内が来るようになりました。母には、就職は県内にして欲しいと言われていましたし、私も新潟県から離れるつもりはありませんでした。それで企業の募集案内を見て、燕市にある洋食器と工作機械の設計製造〇〇工業株式会社に応募しました。9月半ばの日に面接に伺い、その10日後くらいに採用通知が来ました。周りの同級生も殆どの人が10月になるまでに、即ち前期の期末テストが始まる前に決まったようです。


私が短大を卒業した年、1966年3月のカレンダーを見ると、20日が日曜日で21日が春分の日で連休になっていました。ということは短大の卒業式は19日の土曜日だったかもしれません。今からちょうど51年前のことで、ハッキリとした日にちは覚えていませんが、卒業式が終わったあと、夕方に長岡の繁華街に行って、生徒達で飲み会をやりました。なにしろ貧乏学生の集まりでしたから、みんなで飲み屋に行ったのは、これが初めてでした。それにしても、ネットで過去のカレンダーを印刷すると、こんなにも青春のひとこまが思い出されることに、我ながら驚きの境地でした。


その日は叔父の家に泊り、翌日の昼頃、荷物を整理し、叔父と叔母にお礼の言葉、どのように言ったかは覚えていませんが、来迎寺駅から汽車に乗って、実家に帰りました。帰りの車中で考えていたことは、やはり母の言葉、「働いたら、叔父さんと叔母さんにお世話になったのだから、稼いだお金を送るように」ということでした。その思いを胸に抱いて、4月1日から燕市の○○工業株式会社で働くことになりました。

自分史 その5に続く。



by stone326 | 2018-01-15 08:44 | 物書きへの道

(8)自分史 その3

(3)高校時代


1961年4月より、高校生活が始まりました。多くの中学校から生徒が集まり、1クラス45人程度で6クラス、270人ほどいました。中間テストや期末テストの成績は、全科目の合計点数で順位が付けられていました。高校1年1学期の中間テストが終わり、田植えも終わった6月初めのある日、母に「高校を卒業したら就職しておくれ」と言われました。


せっかく進学校に入学できたのに、やはり家は貧乏で、これから先7年間も私の学費を払うのは大変だったようです。というのは、長兄が農業高校を卒業してから、地元の会社に勤めていたものの、すぐにやめてしまい、家に閉じこもってしまいした。もちろん、農家の長男ですから、農繁期には野良仕事を手伝っていました。さらに次兄も職業訓練所を卒業して、地元の会社に勤めていましたが、私が高校入学の年に、東京で働くことになったのです。


結局、家に残って両親と一緒に野良仕事をするのは、長兄と私の二人になりました。稲作の収入だけで、家族4人の生活と私の教育費を払うのは、大変なことだったと思います。農閑期には両親揃って、田圃の耕地整理の土方仕事に行っていました。私も夏休みにはペンキ塗りや荷物運びなどのアルバイトをやっていました。とにかく高校3年の夏休みまで、ろくに勉強していなかったようです。


ということで、高校3年生になった私は、卓球クラブに入部したり、応援部や球技大会の審判などをやったりしていました。しかもこの4月から毎週土曜日に、9500万人のポピューラリクエストというラジオ放送が始まり、ますますアメリカン・ポップスにはまっていくことになったのです。


夏休みが終わった9月のある日、母が高校の父兄会で担当の先生に言われたことがありました。

「息子さんの大学受験、つまり志望校は?」 

そのことで母は父と相談して、私が大学に行くのはやむを得ないな、と思ったようです。しかしながら、家はお金がないため私立大学は全て駄目で、下宿して通うのも無理だということでした。当時は銀行、若しくは農協から借金をするということは、あまりなかったようです。但し、奨学金は私が社会人になってから返済すれば良いのだから、少なくとも学資くらいは、自分で払うことができると思いました。


そのようなわけで、2学期の中間テストと期末テストは、久しぶりに勉強した成果が出て、成績は良かったようですが、とても一流大学は無理、時すでにおそし、の感がありました。また、趣味である映画は観に行かなくとも、洋楽は毎週ラジオ放送を聴いたり、レコードを買ったりしていました。特に1月には、ビートルズの抱きしめたいというレコードを発売と同時に買いました。


幸いなことに、2学期の期末テストが終わり、大学入学試験が始まる3月までは、農閑期だったので勉強する時間は、それなりにありました。それで3学期の期末テストは、かなり出来が良かったですが、内申書は2学期末ということで、受験する大学は狭まれたようです。それで両親とも相談し、新潟大学工学部と長岡工業短期大学電気工学科に決めました。


当時、私の叔父は国鉄職員で来迎寺駅の官舎に住んでいたため、新潟大学工学部若しくは、長岡工業短期大学電気工学科なら汽車通学が可能であり、下宿代はサービス、私の食事代は家で作ったお米をあげるということで決まったようです。そして、大学受験は両親が望んでいたように? 新潟大学工学部は不合格、そして長岡工業短期大学電気工学科が合格しました。これなら叔父にお世話になるのは2年間、3年後には金食い虫が働いてくれるので、両親は助かったことだと思いました。


しかしながら、同級生のみんなが大学を受験し、志望校に入れなかった仲間は、その後、浪人してでも志望校に進みました。その結果を知った私は、大いなる挫折を味わいました。とは言っても、これは両親のせいではないし、悲しき願いのセリフ、誰のせいでもありゃしない、みんなおいらが悪いのさ。そうです。私の両親は息子3人を育てるのに、どれほど働いていたかを目の当たりに見てきたのは、ほかならぬ私自身だったからです。


ということで、せっかく進学校を卒業したのに、という考えから、進学校を卒業したのだから、自分の運命を切り開き努力して行こう、との思いを胸に秘め、長岡工業短期大学電気工学科に入学することに決めました。

(短大時代に続く)


by stone326 | 2018-01-14 09:18 | 物書きへの道

(7)自分史 その2

(2)中学時代

世の中は便利になったもので、私が中学に入学した年、1958年はネットを検索すると、カレンダーを見ることができます。そのカレンダーを印刷して見ると、中学入学式の日まで、はっきりと蘇ってきます。


私は中学生になっても、野良仕事は相変わらず手伝っていました。というのは長兄が農業高校に、そして、次兄が職業訓練所に通っていたからです。田圃は1町8畝あるので、田植えは毎年6月初めに、近所の人からも手伝ってもらい、2日間で終わらせていました。それから稲の成長と共に、田の草取りが1カ月くらい続きます。夏になると田圃の水も引き、夏の暑い日差しの下、一気に大きくなり、秋の収穫へと向かいます。


そして、9月半ば頃から、家族総出で稲刈りが始まり、10月末まで掛かります。晴れた日の平日は、学校から帰るとすぐに田圃へ行って、稲刈り、はさ木に稲束かけの手伝いをしてしいました。日曜日は、雨の日以外は朝から、母が作ってくれたおにぎりと漬け物、お茶などを持って、夕日が沈むまで手伝っていました。


天候にもよりますが、約10日間で稲かけをした稲穂が乾燥します。はさ木から稲束を下して家まで運びます。我が家では、稲束の運搬にリャカーを牛に引かせていました。夕食後、また家族全員で脱穀の仕事です。作業は4人でやっていましたから、両親と私は毎回で、長兄と次兄は勉強があるので、順番に手伝っていました。あまり詳しく書くと長くなってしまうので、このくらいに留めておきます。

 

ということで、私は雪が積もる12月半ばから、翌年の3月までは野良仕事がなかったので、少しは勉強していたと思います。夏休みは1カ月くらいありましたが、母と一緒に畑に行ったり、両親や兄たちと一緒に山に行っては、焚き木の背負い出しを手伝ったりしていました。もちろん、それ以上に遊んでいましたが・・・・・・。


私は中学1年生から、旺文社発行の中学時代を3年間、購入しました、近くに本屋がなかったので、毎月郵便で送ってもらいました。中学時代の雑誌の内容は、学習ガイドはもちろん、時事解説、漫画や小説も載ってあり、参考書や小説を買うより安上がりでした。さらに毎月学力テストの応募があり、私は毎月のように応募していました。したがって、毎日の授業と宿題、それと学期末試験の時に少し頑張っただけで、高校受験のために勉強したのは、中学3年生の11月頃から4カ月程度だったと思います。


それでも県下の進学校に合格できたのですから、毎日の授業と旺文社の中学時代を3年間、愛読した賜物だと思っています。

(高校時代に続く)


by stone326 | 2018-01-13 09:01 | 物書きへの道

(6)自分史 その1

私はブログを書き始めてから、早や6年の月日が経ちました。この間、好きなマカロニ・ウエスタンを初め、アメリカン・ポップスやリバプール・サウンドなどの文章をメインに投稿してきました。そして今、初心に戻り自分史を書くことにしました。まだ全部完成していませんが、小学時代からスタートです。


(1)小学時代


出生地は新潟県で、終戦直後の8月21日に農家の3男として生まれました。すでに両親と2人の兄は他界したので、少年時代に一緒に過ごした家族は、私1人になってしまいました。23歳の時に横浜に来てから、今は町田市に住んでいます。


私は小学2年生の頃から、野良仕事といわれている田お越しや田植え、田の草取り、稲刈り、脱穀の手伝い、山に行っては焚き木の背負い出し、畑仕事、家畜の牛や鶏に餌をやっていました。小学校を卒業するまでは、勉強よりも野良仕事と遊ぶのが中心でした。冬には雪がたくさん積もるので、スキーや雪でかまくらを作って遊んでいました。また、夏休みは近くの川で泳いだり、日本海の海にも行ったりしていました。


当時の川には、鮒やドジョウ、ナマズもいたので、それらを捕まえ、焼いたり煮たりして食べていました。また、梅雨から秋にかけては、グミやさくらんぼの実、梅、クルミ、柿、栗などの果物は、全てと言っていいほど、ただで食べていましたし、りんごや梨、ミカンなどは父が買ってくれました。もちろん井戸水を飲んでいましたから、食料品を買うのは、魚、肉、豆腐、納豆、それに調味料などでした。実家は貧乏でしたが、食べるには不自由しなかったようです。


私が生まれた年は子供が少なく、生徒数はわずか35人くらいの1クラスでした。私より2学年下は、2クラスあったようです。私の記憶では、運動会をやっても足が遅く、小学低学年までは、字が下手で成績も悪く、音楽にいたっては両親に似たのか、音痴で音楽の先生にこっぴどく叱られていました。ただ、たまたま絵が上手だったことと、野良仕事を手伝っていたせいか、子供心にも頑張りの精神があったのだと思います。さらに1日の野良仕事が終わった時に見ていた両親の笑顔は、いつまでも私の心に残っています。


小学時代の詳しい思い出については、別途書いている最中です。物書きへの道に進むには、自分史に挑戦するのも良いかと思っています。

(中学時代に続く)


by stone326 | 2018-01-12 08:43 | 物書きへの道

(5)物書きへの道 その5

先に出版した「北極熊はどこへ行ったの」(第一部)FLNG船を拿捕せよ、について説明いたします。


一.人類史上最大の船、FLNG船が登場します。

二.ストーリーが、地球規模で展開します。

三.物語の進行に伴って、ヒット曲と映画を数多く盛り込んであり、巻末にヒット曲と映画の説明を記載してあります。


本小説は過去の小説の定石にこだわらずに、ストーリーの展開をヒットした歌の曲名、および映画の内容や題名などに合わせて、多少強引な場面もありますが進めています。ゆえに、その場面に差し掛かった時にYOU TUBEで、ヒット曲名や映画の題名を検索して歌を聴いたり、動画を見たり、することによって楽しさが倍増します。特に登場人物が女性の場合は、女性の名前が入っているヒット曲名を多く使っています。


本小説を読む場合は、YOU TUBEから気に入った曲をダウンロードしておけば、いつでもその歌が聴けます。したがって小説を読みながら、その場面にふさわしい歌を聴くことによってイメージが湧いてきます。また本文中で、ヒット曲名はマミー・ブルー、映画の題名は、『北京の五十五日』というように表示してあります。


今日のネット社会において、パソコン一台で殆どの情報が手に入ります。日本のみならず全世界の地名や世界遺産、世界の時間、各国の料理など知りたいことは、すぐ検索できます。今までの小説は、人物が登場する場面の説明に関しては、詳しく長々と書いていましたが、これからはグーグルでその地名を検索すればイメージが掴めます。また、小説の中にそういったヒット曲名や、それにふさわしい映画の題名を示しておけば、読者の方はネットを検索することによって、いろんな情報を入手することができます。


一般的に言いますと、どんなに面白い本を読んだとしても、読み終わると頭に残っているのは、最初のくだりと最後の所だけで殆ど忘れてしまいます。そして時間の経過とともに主人公の名前さえ忘れ、その本を読んだことがある、で終わってしまいます。それは、ひとえに難解な漢字(カナがふってあり、周りの雰囲気でだいたい意味が分かる)や知らない地名や言葉が出てきても調べる必要がない、若しくは調べようとしないからです。



by stone326 | 2018-01-09 08:38 | 物書きへの道

(4)物書きへの道 その4

私は生まれてこのかた約六十年間に亘って国内、国外を問わず時代小説や恋愛小説、推理小説、冒険小説などかなり小説を読んできました。そして読み終わった後は必ずといっていいほど、こういう小説なんかは自分に書けるわけがない。字は下手で文章は殆ど書いたことがない。いざ、ストーリーを思いついても仕事に追われ、時間も金もなく、当然関連資料を調べるのにそういう書物を購入したり、図書館まで行ったりしなければならない。下手な字で原稿用紙を三百枚以上も書くことなんて殆ど不可能であると。しょせん小説を書くということは、貧乏暇なしのような私にとっては、はかない望みだったと。よしんば小説を書いたとしても出版するまでに、途方もないお金が必要なのだと。


確かに今までは、そういったことは歴然たる事実でした。しかしながら今日のパソコンやインターネットの普及に伴い、状況が一変しました。まずはパソコンに文章を直接入力することにより、字が下手だという問題は解消されました。文章の書き方にしても、書店で説明書を買わなくてもネットで検索できるようになり、書こうとしている小説に必要な情報は全てといっていいほど、ネットで検索できるようになりました。


すでに読んだことのある小説の中には、ほんの一部分ですが過去にヒットした曲や映画の題名、スターの名前が登場する場面があります。それらの情報も居ながらにしてパソコンで情報を得ることができるようになりました。全くの素人でも、そしてお金を大して持っていなくても電子書籍なら自費出版が可能な時代になってきました。


さらには、紙の本にしてもオンデマンド印刷で、一冊ごとに販売することが可能になりました。費用としては表紙の作成と、推敲するのに製本を注文するだけです。もちろん、原稿の入稿と出版の手続きが必要なのは、言うまでもありません。

(4)物書きへの道 その5に続く。


by stone326 | 2018-01-08 09:10 | 物書きへの道

(3)物書きへの道 その3

第三章.ドラゴンへの道と怒りの荒野、群盗


次に示す三本の映画は、パイピングエンジニアへの道としても多少参考になるものがあり、さらに「映画とは本当にいいものですね。またお会いしましょう」と言ったテレビ解説者がおられましたので、蛇足とは思いますが書くことにしました。


一.ドラゴンへの道

言わずと知れたブルース・リー主演の香港映画です。日本での劇場公開は、香港で製作されてから三年後の一九七五年で、この年の正月映画は観客を独占するために、わざわざ公開を第二弾にしました。今でも、いの一番に映画館で観たことを覚えています。


オープニングの音楽も良かったし、最後のチャック・ノリスとのコロッセウムの決闘は本物のロケだったこともあり、迫力満点でした。監督と脚本もブルース・リーで、共演した女優のノラ・ミャオの清楚で美しい姿は、たちまち日本人男性の虜になりました。


と、ここまでは一般的な説明ですが、パイピングエンジニアへの道として取り扱ったからには、レンタルショップよりDVDを借りて四十一年振りに観ました。ところどころ思い出す場面がありましたが、店の主人が交わす言葉に「己の欲せざる所、人に施すことなかれ」という中国の故事がありました。


意味は、自分がして貰いたくないことは、人にやってはならないということで、自分がやって貰いたいことは、人にもやってあげなさいということです。しかしながら、今のように道徳が乱れている時代は、前者の場合は、人には何もしなくても良いという考えになったり、後者の場合も、人には何もしない方が良いというような考えになったりするケースがあると、ひとつの意見としてネットに載っていました。


私としては、このような社会になっていることに危惧を覚えずにはいられません。その上をいく格言として、次に示す教えが昔から日本にあるようです。自分が施したことにより、相手方の喜ぶ笑顔を見ると、自分はもっと嬉しくなるということです。しかしながら、ここでも相手方が作り笑顔だったり、後で裏切ったりするようでは、もはやその人を救うことはできません。


 二.怒りの荒野

公開当時(一九六八年)、マカロニ・ウエスタンで人気絶頂のジュリアーノ・ジェンマと、『夕陽のガンマン』で若い賞金稼ぎのクリント・イーストウッドと組んで、山賊のインディオ(ジャン・マリア・ヴォロンテ)を追いつめ最後の決闘で見事、妹の仇を討った大佐役のリー・ヴァン・クリーフとの宿命の師弟対決。


ガンマン心得十カ条を私生児で、町の人から嫌われているスコット(ジュリアーノ・ジェンマ)に教え込む流れ者のガンマン、タルビー(リー・ヴァン・クリーフ)。映画館で観た時は、オープニングの動画と音楽の素晴らしさは、おそらく数あるマカロ・ウエスタンでも№1であると思っていますし、この動画のアイデアを超えた作品に、私自身まだほかに出会っていません。


ガンマンの心得十カ条をタルビーが、スコットに教えて行くプロセスが大変痛快で、特にタルビーとライフル銃の殺し屋との馬上の決闘は、映画館で二回も観てしまいました。なお、この文章は拙著の「ジュリアーノ・ジェンマ特集」の中からの抜粋です。


 三.群盗

久々にレンタルショップより、韓国映画『群盗』のDVDを借りて観ました。ネットやツイッターの情報で、ジュリアーノ・ジェンマ主演『怒りの荒野』の主題曲が入っているということを知ったからです。当然の如く主演のハ・ジョンウもカン・ドンウォンも、私は知らない俳優さんです。


オープニングで『怒りの荒野』のメロディが流れ、最後の決闘場面でも『怒りの荒野』のメロディにのって、ハ・ジョンウ演じるトルムチがガトリング銃で颯爽と登場! マカロニ・ウエスタンで何回もガトリング銃の威力を観てきた筆者にとっては大感激であり、悪徳官僚や部下たちの悪漢を倒した場面は、圧巻のシーンでした。 


それにしても、『荒野の用心棒』でジャン・マリア・ヴォロンテが、馬車に隠しておいたガトリング銃で騎兵隊を皆殺し、『続・荒野の用心棒』ではフランコ・ネロ演じるジャンゴが、棺桶に隠しておいたガトリング銃で悪党どもを倒し、『皆殺しのジャンゴ』ではテレンス・ヒル演じるジャンゴが、墓場に隠しておいたガトリング銃で妻の敵を見事に倒しました。


そしてマカロニ・ウエスタン以外の映画では、ルーシー・リューとアントニオ・バンデラス共演の映画『バリスティック』で、ルーシー・リューが装甲車にあるガトリング銃で敵をバッタバッタと倒す場面がありました。


それから時が流れ、『怒りの荒野』のメロディにのって、トルムチがガトリング銃で悪党共を倒しました。まさにマカロニ・ウエスタンの輝かしい伝統が受け継がれたという爽快感および満足感を味わいました。


さて、『怒りの荒野』ではガンマン心得十カ条なるものがありましたが、『群盗』では仲間に入るのに3つの条件がありました。

1.目は力強く濁りがないこと

2.勇敢で度胸があること

3.人より秀でた何かがあること


さらにマカロニ・ウエスタンには、随所に聖書や偉人の言葉、詩などが載っていましたが『群盗』にもありました。カン・ドンウォン演じるチョ・ユンが劇中語る言葉、「汚れた大地に白い蓮華が咲くのは、神のご意志か、それとも蓮華の意志か」というように、さらりと語られていた映画に奥深いものを感じました。


なお、ネットの評価をみると、さして良い点数が付いていませんでした。マカロニ・ウエスタンの大フアンである私としては音楽も素敵で、悪徳武官たちと義賊団との戦いも見事な出来栄えでした。とにもかくにも沈む夕陽に向かって、義賊団が馬を疾駆する姿は『怒りの荒野』のメロディにのって最高の場面であり、高齢者になった私にとっては思いがけない幸運な出来事でした。実際のところ私は、借りたDVDを一週間で三回も観てしまいました。


それはともかくとして、韓国の俳優さんは皆演技が上手いです。二大スターのハ・ジョンウとカン・ドンウォンはいうに及ばず、義賊団のお頭を始め、生臭坊主、マヒヤンなど皆いい味を出していました。

というように、映画の感想なども書きながら、少しずつ物書きの道へと進んでいます。


by stone326 | 2018-01-07 09:00 | 物書きへの道


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