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(13)六ポケット家族 その1

第一章 六ポケット箱根旅行

第二章 六ポケット誕生会

第三章 六ポケット伊豆高原旅行

第四章 第一回保育園クリスマス大会

第五章 第二回保育園クリスマス大会


  登場人物

  岩田源一郎 (六十九歳)

  岩田和子  (六十六歳)

  岩田雅之  (四十歳)

  岩田夕子  (三十六歳)

 岩田隼人  (六カ月)


  福山正    (七十二歳)

  福山利律子 (六十八歳)


第一章 六ポケット箱根旅行


    一


 二〇一四年六月五日頃に梅雨入りした関東地方は、六日間ほど雨の日が多かったが、十九日頃から晴れの日が続いている。今日(二十二日)も梅雨の谷間の良い天気である。


 ここはJR成瀬駅から徒歩十五分の所にある二世帯住宅で、土地が約五十坪、建坪がちょうど四十坪ある。土地と建物は、岩田雅之と妻夕子の共同名義で購入し、長男の隼人(はやと)の三人が二階に、雅之の両親である源一郎と和子が一階に住んでいる。


 東道路に面しているため祖父母の玄関が南側、息子夫婦と孫の玄関が東側にある。そして一階の廊下で両家族が繋がっている典型的な二世帯住宅である。また、南側と西側にも二階建ての家があり、北側には幅員六メートルの専用通路がある。したがって、南側にはカースペースや樹木、芝生などの庭があり、春から秋にかけて少しの野菜も作っている。


 岩田雅之は八王子市にある機械製作所に、そして夕子は横浜線の鴨居にある食品製造会社に勤めている。隼人は昨年の十二月十日に生まれたが、夕子が半年の産休を取ったあと、両親は隼人を近くの保育園に預けた。ということで隼人の保育園の送り迎えは、年金で生活している源一郎と和子がやっている。


 六月の第三日曜日、すなわち父の日は、午後五時から二階のダイニングで雅之と夕子、隼人、そして源一郎と和子が四角いテーブルを囲んで、夕食会を始めるところだった。注文したお寿司とスーパーで買って来たお刺身やたこ焼き、そして夕子と和子で作った家庭料理を前にして雅之が、

「今日は父の日でもありますし、隼人も今月の十日で六カ月になりました。隼人はまだ離乳食ですが、私たちはビールを飲みましょう」

 と言って父の源一郎に、夕子が義母の和子にビールを注ぐと、今度は源一郎が雅之に、和子が夕子にビールを注いだ。隼人はベビーチェアに腰掛けたまま、黙って両親と祖父母を見ていた。みんな揃ったところで雅之が、

「それでは、みんなの健康を祝して乾杯!」

 と言うと、大人たちはビールを飲み始めた。夕子は少しだけビールを飲むと、隼人に離乳食を食べさせた。


 源一郎と和子、そして雅之はお刺身やたこ焼きを食べたり、お寿司を食べたりしてビールを美味そうに飲んでいた。夕子は隼人に離乳食をあげたり、自分もその合間をぬって、お刺身みやたこ焼きなどを食べたりしていた。みんながビールをお代わりしたところで雅之が、

「それで箱根に行く日を来月の三十一日と八月一日にしたいと思っています。木曜日と金曜日に会社を休んだほうがいいし、夏休みなので金曜日や土曜日は予約が難しいから」

 と言うと和子が、

「私たちは毎日が日曜日だから、それでいいわ。それはそうと、箱根というと芦ノ湖に行ったり、箱根ロープウェイに乗ったりするのかしら?」

 と訊いたので雅之は、

「芦ノ湖は行くけどロープウェイに乗るのは、隼人にはまだ無理だと思う。それよりもガラスの森美術館に行く予定だ」

 今度は源一郎が、

「芦ノ湖に行ったら遊覧船に乗るのもいいね」

 と言って、イカの刺身に箸を付けた。夕子は隼人の離乳食が終わったので、

「旅館はガラスの森美術館のすぐ近くにあり、食堂と私たちが泊まる建物は離れているの。パンフレットを見ると、林の中にあって別荘みたいな雰囲気だわ」

 雅之は両親が喜んでいるようなので、

「それで旅行には福山さんも行ってもらうことに。そして八人乗りのワゴン車を借りようと思っている」

 と言った。その後、みんなはビールやお刺身、お寿司などを食べながら楽しく時間を過ごした。雅之が腕時計を見ると、八時十分前だったので、

「そろそろ終わりにしたいと思います。隼人をお風呂に入れたいから」

 と言うと、源一郎も腕時計を見てから、

「それじゃ、俺たちは引き上げようか」

 続いて和子も、

「今日はご馳走さまでした。隼人君、バイバイ!」

 最後に夕子が、

「お義父さんとお義母さん、今夜は有難うございました。お休みなさい」

 と言ったので、源一郎と和子はダイニングを出て、一階に下りて行った。


     二


 関東地方は七月二十一日に長かった梅雨が明け、今年も真夏の太陽が照りつける暑い季節がやってきた。ようやく夏の暑さに慣れてきた七月三十一日は、朝から曇っており少し蒸し暑かったが、高台にある家の周りは風が涼しげに吹き抜けていた。


 二階に住んでいる雅之と夕子は、隼人にも朝食を食べさせ、旅行に行く準備の真っ最中だった。雅之は八時半になると自家用車に乗って、八人乗りのワゴン車を借りるため、成瀬駅前のレンタカーショップに行った。家のカースペースが空いた所に、福山夫妻が自家用車で来ることになっている。その時間を九時に決めたので、九時五分前に福山夫妻が到着した。


 したがって、一階に住んでいる源一郎と和子は悠々たるものである。朝早くから息子夫婦と孫、そして福山夫妻が狛江市から一時間ほど掛かって、車に乗って来るのとは雲泥の差である。


 福山夫妻が二階に上がって夕子と話し始めた時に、雅之がワゴン車に乗って帰って来た。雅之が東玄関前にワゴン車を停めると、源一郎と和子が戸締りをし、南玄関から出てワゴン車のそばに来た。雅之は二階に上がり福山夫妻と夕子、それに隼人を連れて東玄関から出て来た。そこで初めて源一郎と和子、そして福山夫妻との挨拶が交わされた。


 それはともかくとして、源一郎と和子は何もしなくても旅行の準備ができたものだ、と感心していた。みんなの荷物をワゴン車の後ろに積み込むと雅之が、

「お父さんとお母さんは二列目座席に、夕子と利律子さん、隼人は三列目座席に、そして正さんは助手席でお願いします」

と言ったので、みんなはワゴン車に乗った。雅之がワゴン車を発進させると夕子が、

「今、九時半だから芦ノ湖に着くのは、順調に行けばお昼頃ね」

 と言った。ワゴン車は横浜町田ICから東名高速道路に入った。二列目座席にいる源一郎がスマホでマップを追いかけ、和子はスマホで芦ノ湖にある遊覧船を検索していた。


 三列目座席では早速、夕子が隼人にミルクを飲ませていた。飲み終わると隼人はすぐ寝てしまった。運転席では雅之が、

「お義父さん、高速道路は空いているようだから、十二時前に着くかもしれない」

「そうだね。後ろは静かだから隼人君は寝たようだ」

「今日は朝早くから起きていたからだろう」

 と言って、雅之は快調にワゴン車を走らせていた。


 その後、ワゴン車は厚木ICから小田原厚木道路に入った。運転席にいる雅之が正に声を掛けた。

「お義父さん、道路が混んで来たようだけど、事故が起きたのかな?」

 正も前方を見ながら、

「どうやら事故ではなさそうだ。道路工事かもしれない。仕方ない、こういう時は気長に行きましょう」

 それからワゴン車は二十分くらいで渋滞から抜け出し、小田原厚木道路から国道一号線に入った。ここから小涌谷まで道路は、おおむね箱根登山鉄道に沿っているので馴染の場所が多い。まずは箱根湯本温泉に塔ノ沢、そして小涌谷の先は強羅、芦ノ湖などである。


 小涌谷駅を通過した辺りで、三列目座席にいる隼人が目を覚ましたようだ。そうこうしているうちに、芦ノ湖遊覧船の駐車場に着いたので、雅之はワゴン車を駐車場に停めた。

その2に続く。


# by stone326 | 2018-02-02 09:00 | 物書きへの道

(12)自分史 その7

新潟市にいた頃


1968年のカレンダーを見ると、3月20日が春分の日でしたから、私は多分、その日に社長に言われた場所、つまり中央工業の従業員が宿泊している家に、夕方直接行ったことと思います。私は燕で買ったものの殆どは実家に置いて、バッグ一つの身軽さでした。


そして翌日の朝、その人と一緒に〇〇造船工場に行き、造船工場の社員や中央工業の従業員を紹介してもらい、船舶艤装の仕事の説明も受けました。設計室内は木造の建物でしたが、社員や下請け会社からの派遣従業員、そして事務係の女性も4人ほどおり、全体で40人くらいいたと思います。燕の〇〇工業とは、雲泥の差でした。


また、勤務時間は午前8時から午後4時までで、1日7時間労働、土曜日は出勤でしたが祝日は休みでした。1カ月の残業も30時間が上限でしたから、1カ月の実働時間は多い時でも210時間くらいでした。不法残業やブラック企業などとは、縁遠い会社でした。


宿泊しているアパートから造船工場まで、歩いて7分くらいの距離で、食事や風呂はありませんでした。それで中央工業の従業員から、食事は毎日3食扱ってくれる定食屋を紹介されました。場所は造船工場から歩いて5分くらいで、有難いことに1食100円、月末払いでした。朝食と夕食は、あまりお客さんが来なかったようですが、昼食の時は12畳くらいある和室の2部屋に、たくさんの人たちが食事に来ていました。それから風呂はどこに行っても銭湯がありました。


私に与えられた仕事といえば、最初の2カ月くらいは、殆どが図面のトレースだったと思います。そして3カ月目くらいから、鮪延縄漁船の艤装設計の仕事をやるようになりました。私は製図の知識はあるものの、やはり簡単な設計図を書いていました。


晴れた日の昼休みには、屋外の広場でテニスをやったり、キャッチボールをやったりしていました。社員はもちろん、外注設計で来ている人たちや、事務係の女性たちも20代で独身の人が多かったです。そこで5月半ばを過ぎた土曜日の夕方、事務係の独身女性4人と、独身男性の人たちの合計8人くらいで、映画『猿の惑星』を観に行ったことがありました。私の人生において、多数の独身仲間と一緒に映画を観に行ったのは、後にも先にもこの1回だけでした。今、思えば良き青春時代のひとコマだったのです。


また、マカロニ・ウエスタンが大ブームの時代でしたから街角の至る所に、マカロニ・ウエスタンのポスターが貼ってありました。燕にいた時は映画館が少なかったので、マカロニ・ウエスタンを観たのは、『荒野の1ドル銀貨』の1本だけでした。それで私は新潟に来てから、『新・夕陽のガンマン/復讐の旅』と『怒りの荒野』を観て、完全にマカロニ・ウエスタンの虜になりました。


その後、8月頃に『夕陽のガンマン』と『続・夕陽のガンマン/地獄の決闘』の2本立てを映画観で観ました。そして11月頃に『星空の用心棒』を観ました。新潟で観たマカロニ・ウエスタンは、以上の5本でした。つい、マカロニ・ウエスタンについて長くなってしまいましたが、年末には『2001年宇宙の旅』と『荒鷲の要塞』の話題作も観とことを覚えています。


私は毎日残業しても5時半には退社していたので、夕食は6時に終了ですから夜の時間は、たっぷりありました。友達と2人で新潟駅前のダンスホールに行って、ダンスを習ったり、友達の家に行って、麻雀もやったりしていました。それ以外の日は、ラジオでナイターを聞いていました。


但し、そんなに稼いでいなかったので、飲みに行くことも、旅行に行くこともなかったです。また、正社員ではないので、この先、仕事を覚えても将来の展望がないな、とも思っていました。


そして、8月のお盆休みには実家に帰りましたが、仕事の内容については、両親にあまり話すこともなかったようです。ただ真面目に働いているよ、というくらいに留めておきました。


お盆が終わって新潟に戻って来ても、仕事のことはあまり覚えていなく、惰性でやっていたように思います。そして、この年の年末に、中央工業の先輩から横浜にある日本揮発油株式会社の仕事をやるのに、その会社の下請け設計事務所である中央プラント工業を紹介されました。先輩から言われた言葉はただ一つ、「お前は、ここで働いているよりも、日本揮発油の仕事を覚えたほうがいい。何しろ仕事のスケールが違うから」ということでした。


当時、私は給料のことよりも、何か仕事を覚え、技術を磨きかったのでしょう。母との約束である「新潟県から出ないで・・・・・・」ということも忘れ、承諾してしまいました。それはひとえに、高田高校時代から味わった挫折が、そうさせたものだと思います。自分にあった仕事を覚え、1人前になって行けば、自ずと給料は稼げるから・・・・・・と。そこで私は、担当の係長と中央工業の社長に、来年の1月半ば頃に退職したいということを伝えました。


年末の29日(日曜日)、正月休みに実家に帰った私は、両親、長兄、そして兄嫁にも、「1月20日に仕事で横浜に行くから」と言いました。この時、両親は反対もせず、私の願いを聞き入れてくれました。


年が明けた1969年1月6日が月曜日でしたから、私は5日の午後、実家を出て新潟に戻って来ました。それから2週間、何の仕事をしたかさっぱり覚えていませんが、1月20日(月曜日)、朝早く下宿を出てバスに乗り、新潟駅に向かいました。荷物は製図用具一式と衣料品だけでした。


(横浜市にいた頃 は現在執筆中です)


# by stone326 | 2018-01-18 09:20 | 物書きへの道

(11)自分史 その6

燕市にいた頃 その2


月が替わって9月1日、私は運送屋に頼み、寮から1キロメートルくらい離れている木造の古いアパートの2階、6畳の和室に引っ越しました。当時のアパートは、台所とトイレは共同で、浴室はなく銭湯に行くのが普通のスタイルでした。私は次の仕事の当てもなく、〇〇工業を退職したのは家庭教師の収入があったからだと思います。


当時、私の考えとしては中学1年生、取り分け中学3年生の家庭教師を来年の2月までやり、それから実家に戻り、新たな気持ちで職探しを始めようと思っていました。また、自炊しなければならないで、小型の電気冷蔵庫や鍋、やかんなどの調理器具、小さな食器棚とテーブル、14インチの白黒テレビ、さらに家庭教師をしている生徒の家に行くため自転車も買いました。


夏の暑さも和らぎ、めっきり涼しくなってきた9月の半ば頃、私はアパートから徒歩5分くらいの所にある小さな町工場で働くことにしました。昭和40年代の燕市は、洋食器のほかに〇〇工業のような工作機械の設計製造、金属製品の加工業などの中小企業、そして、夫婦や家族で働く零細企業などがたくさんありました。私が働いていた頃は、まだ自家用車を持っている人は少なく、遠くから通って来る人たちは、列車通勤が多かったようです。したがって朝、夕の通勤時間帯の燕駅は、都会並の混雑でした。


アルバイトを始めた町工場も、両親と2人の息子さんで働いている典型的な零細企業でした。しかしながら、かなり広い工場の中には、金属切断機やクレーン、各種金属板が高く積まれていました。また、運送用トラックが1台あり、自家用車も2台あったと思います。私の仕事は単純で、息子さんがクレーン操作をする際、積み上げる金属板を目的の場所に誘導することでした。その他の仕事としては工場内の清掃、軽い金属板の運搬などでした。


勤務時間は午前8時から午後5時まで、昼休みは1時間、休日は日曜日でした。したがって、昼食はアパートに戻って食べていました。夜の家庭教師も7時から9時まで、やっていましたから、銭湯に行くのは9時半頃でした。


11月になると雨の日が多くなり、12月には雪が降る日もありました。私は3カ月くらいアルバイトをしましたが、クリスマスの前に仕事を辞めました。正月休みには実家に帰りましたが、この時は、両親に〇〇工業を退職したということは、話さなかったと思います。来年の2月に、燕を離れる時に話せばいいかなと・・・・・・。


ということで、年が明けた3日には燕に戻って来ました。そしてまた3日の夕食から、自炊生活が始まりました。1968年のカレンダーを見ると、仕事始めの4日は木曜日でしたから、家庭教師は8日(月曜日)から始めたと思います。それから雪国特有の冬将軍の季節が始まり、1週間も雪や吹雪の日が続きます。と言っても、昼間に雪が止んだり、夕方に薄日が射したりする日もありますが、1日中晴れの日は少なかったです。


この年はうるう年でしたから、2月29日には家庭教師をやめました。昼間は暇だったので、引っ越しの準備や運送屋の手配、市役所の転出届などを済ませておきました。また、〇〇工業をやめたので、3月2日(土曜日)午後2時頃、実家に着くということを電話で伝えました。


当日のことは、50年経った今でも本当に良く覚えています。やはり、人間の記憶というものは、節目の日は忘れないものなのでしょうか。3月になると、ようやく雪国にも春の日差しが訪れてきます。燕市は日本海に近いため、積雪は私の実家よりも少なく、真冬でも自転車に乗ることができました。


運送屋が10時頃に来たので、荷物を小型トラックに運び込んでくれました。運転手は1人だったので、私は助手席に腰掛けさせてもらいました。あらかじめ地図で調べておいたルートを運転手に告げると、運転手はすぐに了解してトラックを発進しました。車中の会話は、全く覚えていませんが、米山大橋近くの休憩所で昼食を摂りました。


昼食後、また、私は運転手と一緒にトラックに乗り、実家がある高田市に向かいました。日本海を右手に望みながら、トラックに乗ること1時間くらいで、国道から実家に行く脇道の入口に、トラックを止めてもらいました。当時は自家用車を持っている家も少なく、国道は除雪されているものの、脇道はまだ雪が積もっている状態でした。私と両親、そして運転手は、荷物を国道から30メートルくらい離れている実家に運びました。


実家は、まだ私が住んでいた時と同じように茅葺の家でしたが、牛を売りに出したため、私は牛小屋を改造した部屋を使うことになりました。実家には両親と兄夫婦、そして長女が住んでいました。両親には〇〇工業の仕事の内容や家庭教師をしていたことなどを話したことと思います。


3月初めとはいえ、家の周りには、まだ雪が1メートル以上も積もっており、私は1週間くらい新聞の求人案内を見ていました。そんなある日、目に留まった会社がありました。それは中央工業株式会社という会社で、勤務地は新潟市にある造船工場、仕事の内容は船舶艤装設計でした。給料も良かったので、早速、その会社に電話しました。そして翌日、私は汽車に乗って柏崎駅まで行き、中央工業株式会社の社長に会い、採用してもらいました。今、思えば人材派遣会社の走りでした。

自分史 その7に続く。


# by stone326 | 2018-01-17 08:37 | 物書きへの道

(10)自分史 その5

新潟県燕市にいた頃 その1


1966年4月1日(金曜日)、ついに私は、社会人の第一歩を踏み出す日がやってきました。この日の朝8時に出勤ということでしたから、私は前日の3月31日の夕方に、○○工業株式会社独身寮「松風寮」の管理人を尋ねて行きました。会社は弥彦線の燕駅から歩いて15分くらいで、松風寮は会社の隣にありました。建物は南向きの木造2階建てで、玄関は東側にあり、細い道路に面していました。


早速、管理人から部屋と社員食堂、共同トイレと浴場の場所を教えてもらいました。社員食堂は、寮生は朝食が7時と夕食は仕事が終わる5時から、昼食は通勤の社員も利用するので12時からで、風呂に入れる日は月、水、金、土曜日の週4回ということでした。なお、本社の建物、および働く場所は、すでに昨年の9月会社訪問の際、案内していただいてありました。社員食堂で夕食を済ませてから部屋に戻り、数少ない荷物を整理したり、押し入れから布団を出したりして、早目に寝たことだと思います。


そして、入社初日は7時半に朝食を済ませ、8時10分前に木造2階建ての2階にある設計課に行きました。設計課長も会社訪問の際、知らされていたので今日は社員、と言っても男性3人と女性1人ですが、課長から紹介してもらいました。それからドラフターと机の場所を教えてもらい、タイムカードの扱い方、コピー機の使い方なども教えてもらったことと思います。


私が就職した時は、テレビはもちろん、ラジオも持っていなかったので、日曜日に駅前の商店街に行って、1万8千円くらいのポータブルステレオを買いました。高校生の頃から洋楽のドーナツ盤をたくさん持っていたし、ラジオで野球や相撲の中継放送などを聞きたかったのです。


月曜日からどのような仕事をしたかと言うと、最初の2ヶ月間は殆ど工作機械の図面を見たり、練習で機械部品のトレースをしたり、図面を青焼きでコピーしたり、していたと思います。当時の労働時間は、1日8時間で土曜日も出勤でしたから、1週間で48時間、多い月は27日出勤だと、1カ月の労働時間が216時間の時もありました。とにかく1週間がとても長く感じていました。半年くらいは毎日定時で帰っていました。


給料は毎月25日締め切りの末日払いでしたから、4月30日が社会人初の給料日でした。今、カレンダーを見てみると、その日は土曜日でした。ゴールデンウィーク真っ最中でしたが、当時は祝日も出勤だったと思います。


社員は150人くらいの中小企業でしたが、福利厚生施設がしっかりしており、社会保険はもちろん、毎年5月頃に1泊2日の社員旅行もありました。また昼休みには、晴れた日は外の庭でバレーボールをしたり、雨の日は屋内でバドミントンなどもしたりしていました。さらに社内結婚された社員の方も多かったようです。そして残業代は必ず支払っており、毎月皆勤手当もあり、小規模ながら模範的な会社だったと思います。


そして、梅雨に入った6月のある日、私が進学高校を卒業したことを、同じ寮生からの知らせで聞いた近所の母親が、私を尋ねてきました。中学3年生の娘がいるので、家庭教師をしていただきたい、英語と数学の2教科で、月謝は毎週2回、3千円だったと思います。時間は午後7時から2時間、毎週月曜日と木曜日、場所は母親の家ということで引き受けました。


その後、翌年の2月まで2人の中学3年生に勉強を教えました。ただし、1人は3カ月くらいでやめましたが、3人とも志望校に合格されました。その噂が近所の界隈にも流れ、4月からは何と、女子中学1年生が3人ずつの2組、月曜日と木曜日、そして火曜日と金曜日。女子中学3年生が3人は水曜日と土曜日に、生徒たちの代表の家に集まってもらい、同じように英語と数学を教えることになりました。そして月曜日と木曜日の女子中学生のうちの1人は、最初に家庭教師をした娘さんの妹さんでした。


燕に来てから7カ月以上たった11月下旬の日曜日、農閑期の合間に母が脇野田駅から普通列車を乗り継いで、私に会いに来てくれました。当然、燕駅前で待ち合わせしてから、会社の寮まで歩いて行きました。部屋に入ると、母が持って来てくれた弁当を食べながら、今の仕事や家庭教師のアルバイトをしていること、そして家族のことなどを話したことだと思います。母との話が一段落してから、家庭教師をしている2人の家に、母と一緒に挨拶に行きました。生徒は3人いましたが、母が来た時はすでに1人やめていました。


その後、母と一緒に燕駅まで見送りに行きました。その日の詳細な出来事は忘れていますが、今こうして自分史を書いていくと普通列車、当時は蒸気機関車でしたが、母が私に会いに来た晩秋の1日を思い出さずにはいられません。


そして暮れの12月31日は実家に帰り、母が作ってくれたおせち料理を、たくさん食べたことと思います。当時は年末年始の休みは少なく、4日から仕事始めなので、3日の夕方には会社の寮に戻って来ました。


私は〇〇工業株式会社に入社してから1年以上経ち、仕事にも慣れてきましたが、この先この会社で仕事を続けても将来性があるのかと、悩むようになりました。それで7月のある日、「8月限りで退職したい」と設計課長に申し出しました。その時設計課長に、「退職しないで会社に残ってもらいたい」と言われましたが、私の意志は変わらず、8月31日に給料をいただき〇〇工業株式会社を退職しました。

(その2に続く)


# by stone326 | 2018-01-16 09:00 | 物書きへの道

(9)自分史 その4

短大時代


私が長岡工業短期大学電気工学科に入学した1964年は、東京オリンピック開催の記念すべき年でした。そして、私の趣味であるマカロニ・ウエスタンがイタリアで製作、クリント・イーストウッド主演の『荒野の用心棒』が劇場公開され、その後、空前のマカロニ・ウエスタン・ブームになりました。


それはさておき、1964年のカレンダーを見ると、4月6日が月曜日でしたから、この日が短大の入学式だったと思います。したがって私は父と一緒に、日曜日に汽車に乗って実家から来迎寺の叔父の家に行きました。そこで父は、(息子が短大に通うので、2年間お世話になるからお願いします)というような話し合いが行われました。


翌日の入学式には、父は短大に行かず、私1人で長岡にある短大に行きました。この日から今までの生活スタイルが、がらりと変わってしまいました。叔父の家は国鉄官舎なので実家に比べて狭く、6畳の台所と8畳の和室が2部屋、そして4畳半と3畳の和室が1部屋ずつでした。もちろん縁側とトイレ、浴室はありました。また、中学1年生の長男を筆頭に、小学5年生と小学2年生の弟が2人、さらに幼稚園の妹が1人、叔父と叔母の6人家族で、長女は東京に働きに行っていました。幸いにして私は狭いながらも、3畳の和室を使わせてもらうことになりました。


息子3人が学校に通い、次女も幼稚園に行っているということで、叔母は家族の食事や弁当を作り、掃除、洗濯も大変だったと思います。さらに少しでも家計の助けになるよう、バトミントンの網張の内職もやっていました。この仕事は夜になれば、仕事から帰って来た叔父を初め、4人の子供たちも手伝っていました。そのような事情で、私もバトミントンの網張を教えてもらい、毎晩のように手伝っていました。但し、年2回の学期末テストの半月くらいと夏休み、正月休み、そして春休みに実家に帰っていた時を除いては。


結局のところ、毎朝6時半に起床、朝食後すぐに来迎寺駅から汽車に乗り長岡駅へ。そこからバスに乗って短大前まで行きました。そして授業が終わるのが、月曜日から金曜日は午後4時10分、そして土曜日は正午、またバスと汽車を乗り継いで官舎に着く頃は、もう5時半になっていました。叔父の仕事は8時から午後5時までなので夕食は大体、6時半頃でした。そして夕食後、バトミントンの網張、入浴を済ませると、もう9時を過ぎていました。


また官舎は当然、線路沿いにあり、朝4時半頃から汽車の汽笛や汽車の走る音で毎朝のように、4時半になると目が覚めてしまい、あとは起床の6時半までうたた寝の状態だったようです。夜10時から翌日の6時半まで寝ていた今までの生活パターンが、見事に崩れ去ったのでした。


そして、この年の6月16日午後1分41秒、新潟大地震が起き、私は短大の機械製図の授業の時でした。信越本線は停まりましたが、バス便はあったので、バスを乗り継いで来迎寺の叔父の家まで帰ったことがありました。


夏休みが終わったある日、叔父がステレオタイプのレコードプレイヤーを買ったので、邦楽、洋楽を問わず歌を聴きながら、バトミントンの網張に精を出していました。また、この年の10月10日に東京オリンピックが開催され、連日のようにTVを見ながら、バトミントンの網張をしていました。

ということで、短大1年の期末テストも無事終了し、春休みには電気工学科の先生と生徒たちで東京に行って、関連会社を4社くらい訪問しました。


そして、2年生の夏休みが終わり、9月になると学校に企業から募集案内が来るようになりました。母には、就職は県内にして欲しいと言われていましたし、私も新潟県から離れるつもりはありませんでした。それで企業の募集案内を見て、燕市にある洋食器と工作機械の設計製造〇〇工業株式会社に応募しました。9月半ばの日に面接に伺い、その10日後くらいに採用通知が来ました。周りの同級生も殆どの人が10月になるまでに、即ち前期の期末テストが始まる前に決まったようです。


私が短大を卒業した年、1966年3月のカレンダーを見ると、20日が日曜日で21日が春分の日で連休になっていました。ということは短大の卒業式は19日の土曜日だったかもしれません。今からちょうど51年前のことで、ハッキリとした日にちは覚えていませんが、卒業式が終わったあと、夕方に長岡の繁華街に行って、生徒達で飲み会をやりました。なにしろ貧乏学生の集まりでしたから、みんなで飲み屋に行ったのは、これが初めてでした。それにしても、ネットで過去のカレンダーを印刷すると、こんなにも青春のひとこまが思い出されることに、我ながら驚きの境地でした。


その日は叔父の家に泊り、翌日の昼頃、荷物を整理し、叔父と叔母にお礼の言葉、どのように言ったかは覚えていませんが、来迎寺駅から汽車に乗って、実家に帰りました。帰りの車中で考えていたことは、やはり母の言葉、「働いたら、叔父さんと叔母さんにお世話になったのだから、稼いだお金を送るように」ということでした。その思いを胸に抱いて、4月1日から燕市の○○工業株式会社で働くことになりました。

自分史 その5に続く。



# by stone326 | 2018-01-15 08:44 | 物書きへの道


マカロニ・ウエスタンの歌詞とその魅力について


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